7/8(土)木村草太「立憲主義と憲法9条」講演会概要

憲法は貼り紙

 貼り紙を見ると、その場でどんなことが起きたかを測り知ることができる ex.国会議事堂には「走ってはいけません」という張り紙はさすがにないが、「ガムは紙に包んで捨てましょう」という張り紙を発見した。(←ガムをそなまま捨てた議員が職員がいた!) 憲法(立憲主義)は、近代になって生まれたものだが、これは近代に権力が集中するようになったことを示すものだ。 ⇔中世的秩序では、権力の分散が一般的だが、近代期に入り権力が中央に集中するようになる。そうすると地方間で深刻な武力衝突は避けられるようになったが、戦争、人権侵害、独裁といった3つの弊害が生まれた。その中では独裁は被害が間接的であるためわかりにくい傾向を持つ。このように、権力の「分散型→集中型」への変化に伴い生じる弊害を避けるため、ルールを作って権力を縛る必要が出てきた。その際注意すべきは、権力が集中するのは、君主制、貴族制、民主制といった政体に関わりなく生じるという事実だ。現在民主政体だから、「独裁は無い」等という理屈は成り立たない。1930年代ドイツでは当時最も民主的なワイマール憲法の下にある民主政体で最も凶悪なナチス独裁政権が誕生したことを想起すべき。

注:日本の今日の安倍一強体制も「独裁的」と言えよう。

憲法を度々変えないのは

 一度法典(特に憲法)に盛り込まれた条文は、それに対する年月を経た現実に対応した解釈が伴っており、それ等が相俟って一つの条文の意味を成している。そこで、条文を変えてしまうとそうした現実との一体感が失われ社会的混乱を引き起こす要因となる。それゆえ、特に日本の法律家にはたとえ現実との乖離がいくつか見られる場合であっても、軽々には条文を入れ替えるという挙には出ない傾向がある。1889年に起草された大日本帝国憲法も、現在の日本国憲法によって改定されるまで改定されずに続いたし、現行日本国憲法も70年改定されずに来ているが、それは法に対する見方の日本的特質でもある。

立憲主義

 基本的人権の保障が、立憲主義の核の一つだが、これを一般的な概念として否定するものはほとんどいない。だが、この問題は具体的場面で見ていく必要がある。例えば、日本の中学で行われている柔道教育では、十分な受け身の訓練がなされないまま「体落とし」などの技をかけられた側の後頭部を直撃する技が初心者にも容認されている。そのため、諸外国では見られない死亡事故が後を絶たない。また組体操が危険を顧みず挙行されているなどの問題がある。こうした組体操の出来栄えが見る人に感動を与えることがクローズアップされ、こうした「やりがいや感動」に、生徒の基本的人権が蔑ろにされていることが覆い隠されるという実態を直視しなければならない。

注:7段ピラミッドの組体操の場合、一番下にいる生徒には200kgもの荷重がかかることが顧みられていない。また、高さも7mになるが、2m以上の高さには命綱等が義務付けられる建築現場と比較してもその危険性が明白であるがこうしたことが考慮されていない現状は生徒の基本的人権がいかに軽視されているかを示す実例だ。

国際法の変遷と憲法第9条について

 19世紀までの国際法では、武力行使は違法とはされていなかった。その分、武力行使=戦争における禁止ルールがあった。例えば奇襲攻撃、捕虜の虐殺、民間人を巻き込む行為劇などが禁止されていた。(注)
 20世紀になって、1904年の不戦条約~1928年のパリ不戦条約などを経て武力行使が違法となる。これらを集大成したものとして国際連合憲章第2条では武力行使を不可としているが、日本国憲法第9条、第1項はこれを反映したものといえる。とはいえ、国連憲章でも、侵略を受けた当事国が、l国連に提訴し、国連がその侵略行為を認定し措置をとるまでの間、自衛権を行使することは認められている。

(注:太平洋戦争を振り返ると、日本によるハワイへの奇襲攻撃、アメリカによる原爆投下等、これらも守られていたとは言えない)。

憲法9条2項

 軍隊の不保持、交戦権の否定を謳うので、これを根拠に自衛のための武力行使はできない。これまでの政府見解が、自衛隊の保持を憲法と矛盾しないと解釈してきたのは、9条以外の条項、第13条で謳われる「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」について記されていることが、「自衛のための必要最小限の自衛力」を認める根拠とされてきたとのこと。

注:憲法第13条は「国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」となっており、これが「自衛のための必要最小限の自衛力」の保持を根拠づけるものかどうかは解釈が分かれるように思える。

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安倍首相の「9条に第3項を付け加え自衛隊の存在を書き込む」という見解

 木村講師によると、「政府側として一番やってはいけないことを深い考えもなしに口走った」と評価。自衛隊の存在を憲法に書き込むことになると、その行動範囲を定義する必要性が生じる。その際、「個別的自衛権のみを認める」と書けば、現行の安保法制は違憲となり無効となる。さりとて「集団的自衛権の行使を認める」ことを書き込むとなると、現行の安保法制の是非を再度国民投票で判定する機会が訪れることになり、いずれの場合でも「安保法制」反対派からみると敗者復活の機会が与えられることになる。

注:安倍首相によると、9条の第1項、第2項はそのままにして、新たに第3項として「自衛隊の存在」を書き込む、というものだ。これは、自民党の現行改憲草案だと賛成が得られないが、加憲を唱える与党公明党や、民進党保守派などからの支持を狙ったものとみられる。実際にこの筋書き通りにいくと、「自衛隊が実質的な集団的自衛権の行使できる軍隊として存在する現実に憲法の条文が合わないから憲法を現実に即したものにする」という改憲論者の見解は「憲法条文上の矛盾を整合性あるものにする」という更なる改憲への合理的な根拠を与えることを狙ったものとも思える。

論評・及び安保法制を戦争法と呼ぶことの問題点

 新進気鋭の憲法学者のこの日の講演は、期待も大きく聴衆が会場を埋める形となった。難しい話を聴衆が身近なところで理解できるよう多くの日常的な事例を盛り込む等配慮が見られた。論点で注目されたのは、憲法9条で否定されている「自衛隊の存在」を根拠づける政府の解釈が第13条にあるという事、また安倍発言が「安保法制の是非を問う敗者復活戦の機会を提供するものだ」という見方は新鮮であった。
 付随的な形でがあるが安保法制は「戦争法」と呼ぶのは不適切であるとの解釈が示された。一般に「戦争法」というのは、国連憲章違反の戦争行為が行われた時の戦時における交戦国間の禁止事項を定めたものとの通念があるため、当会(安保法制の廃止を求める愛媛の会)等が、安保法制を戦時法=戦争法と呼ぶのは国際法上の通念と相いれないという事だ。

注:当会の「安保法制(戦争法)」という呼称は、政府が安保法制を「平和安全法制」と呼ぶことに対する反発、つまり、自衛隊に集団的自衛権を認める当法制が「平和の維持のため」ではなく、「戦争への加担」のためだという性格を明示するためのものである。その意味では、政治的標語と言えそうだが、この問題の本質を国民の中に定着させるうえで一定の役割を果たしてきたことは否めない。とはいえ、本講演者の提言されるように国際法の通念としてある「戦争法」との概念的混乱を防ぐため、呼称を見直すか検討が必要かもしれない。

(注釈を含めた文責 ホームページ担当 M:本講演会については録音によるものではなく、メモを頼りに概要を記しています。不正確な点がありましたらご連絡いただけると幸いです)

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